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2008年12月1日作成。
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何年も前から書店の閉店が各地で相次ぎ、その原因が取り沙汰されています。

あまりにも規模が小さな書店はともかく、中規模以上の書店であれば、どこもネット書店にはない利用価値があると考えます。

ネット書店の最大の弱みは、具体的な書名なり著者名なりをいちいち検索しないと目的の書籍を探し出すことができないことにあります。検索するには、そもそも具体的な検索名が既知である必要があります。

その点、書店訪問時は、目的のものを探すときのみならず、店頭の棚をつぶさに眺めて、その関連棚の全容を把握することができる点にあります。

案外、巨大著名書店よりもまずは、中規模の書店(あるいは、巨大書店の本店ではなくそれよりこじんまりした中規模の支店)に立ち寄る方がてっとり早く掘り出しモノに遭遇できる可能性すらあることがまさに書店巡りの妙味であり、その果実は、これまでの経験からも数知れずと言えます。

いきなり丸善東京駅前本店などに立ち寄って、目的の書籍の分野のコーナーを探そうとしても、その分野によっては、あまりにも配列されている分量が膨大過ぎて、とてもじゃないが、探しきれないことも多いため、まずはこじんまりとした量を収納する中規模書店で探したほうがおおよその見当をつけやすい、ということもあります。

しかも同じ書店系列でも支店によって棚の配列が異なるので、それがかえって思わぬ書籍との遭遇を招くことも多々あります。無味乾燥でろくにページ内を確認できないネット書店との格差、落差大であります。

まったく予想もしなかった書籍、こんな本があったのか、という驚き、意外性などは、まさに書店の実店舗ならではです。そしてそれは、その書店のベテラン仕入れ担当者のお手柄です。

そして、長期間にわたって、繰り返しお気に入りの書店巡りをしていると、そのうち、各書店の強み、特長が頭の中に入ってきて、そのときに必要な書籍の対象や目的に応じて、訪問すべき書店をどこにするかを決定することができます。

書店なんてどこに行っても同じ、というようなことはありません。意外と店舗ごとの特長があり、同じ新刊でも展示されている書籍には、かなりのバラエティがあるところがたまりません。そのなかでも特長の濃い書店ほど飽きが来ず、また来てみようと思わせるものがあったり、○○書店のこの新刊コーナーさえチェックしておけば大丈夫、みたいな確信が得られるコーナーがその人の趣味に応じて発見できればなにものにも代えがたい大きな収穫です。

神保町の東京堂書店には今ではカフェが併設されていますが、それができる前までの東京堂書店の新刊コーナーは、こじんまりした中にも驚くべき興味深い本のみを凝縮したかのような不思議な空間だった時期があります。カフェができてからは、そのコーナーの内容がやや変わってしまったような気がし、以前のような手練れのマニアが選びに選んだ書籍感がなくなってしまったような感触があり、最近は訪れることもなくなってしまったのが残念です。

私にとって、今では、それに代わって、埼京線北与野駅前の書楽です。ここも最近の趨勢には勝てず、それまで3フロアあった書店フロアが2フロアになってしまいましたが、それでも、ビジネス書、評論関連の新刊コーナーは、非常に中身の濃い、バラエティ溢れるコーナーになっており、その取り合わせは、同書店独自のもので、貴重極まりないことこの上ありません。ここで見つけたものを別の書店の新刊書コーナーで探そうと思ってもなかなか見つけることができません。本来、本社が焼き肉の安楽亭なので、書店業とは別の業態なのに、並べる書籍の選択眼には、不思議なことに独特のものがあるのが超不思議です。

その取り合わせを見ていると、ウェブ上の類似本のありきたりかつ機械的にリストアップされた配列なぞくそくらえ、とさえ思ってしまいます。

 

上記のようなことを満喫できるためには、大手の書店が自社の店舗内の実際の棚を何週間かに一度くらいの間隔で写真に収め、それをウェブ上で公開するのが親切なのではないかと思う次第です。そうすることで、地方在住の人もあたかも大手の書店に行ったかのような感覚で擬似的に実店舗を渉猟しているかのような感覚を得ることもできるし、そこで知った書籍をあらためて書店に注文することもできます。

そういうことを大手の書店の人に提案してもなぜか、不思議なことにあまり乗り気ではありませんでした。そうすることが実書店に恵まれない全国における不特定多数のユーザーへのサービスになることは必至だと思うのですが。

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まず英和辞典で、operationの訳語を調べていただきたい。

実に多くの語義が記載されている。
(1) 運転
(2) 運用
(3) 操作
(4) 施行、実施、操業
(5) はたらき、作用
(6) 事業、仕事
(7) 作戦
(8) 手術
(9) 演算
etc., etc.

日本語ではごく特定の分野の狭義の意味で使われているものでも、英語では、広義な意味を持つ一語で兼用する傾向が強い。そして、その意味は、文脈任せである。したがって、文脈のない孤立した単語や表の中では、文意がとりづらいもの、誤解を招きやすいものがある。
日本語でも「何を」operateするか、つまりその対象に応じて、それぞれ「運転」にしたり、「運用」したり、「操作」にしたりとそのたびごとに表現を使い分けているが、英語では、それらはすべてoperateで済ませている。
したがって、それから派生したoperatorも「オペレーター」かと思えば、「事業者」だったり、はては、「演算子」だったりとまさにとんでもない分野にまたがった意味が兼用されており、なにごともそのおおざっぱぶりが欧州言語の大きな特徴となっている。
その多義ぶりゆえに特に英和翻訳の際の機械翻訳、自動翻訳泣かせである。逆方向の和英の場合はそれほどでもない。

同様の現象がcontrolという語にも見られる。
これは、operationほど意味が枝分かれしていないものの、抽象名詞と具体的な名詞の混用が見られる。
一般的には、「コントロール」「制御」あたりで訳語が落ち着くことが多いが、ときとして、日本人の感覚では、具体的にはっきりと、誤解なきよう「スイッチ」「キー」「ボタン」「つまみ」「コネクター」「端子」「ウィンドウ」などと表記すればいいのに、よりによって、それらを明確に区別せず、全部controlsなどの表現でざっくりと総称してしまうことがある。おそらく、上記のそれらをいちいち区別するのが面倒なのか、わずらわしいのか、細かいことを言うのが面倒な気質なのか、それらの総称に対応する表現にしようとするとどうしても日本語では、「制御装置」などとせざるを得ず、実にその日本語の語感からは、おおげさ、硬い、仰々しい印象を与えずにはおれず、違和感を与えること大なるものがある。
しかし、やわらかいなじみのある表現にしようとすると、逆に「スイッチ類」などの表現になってしまい、原文のあいまいさをそのまま踏襲せざるを得なくなり、苦しいものがある。彼ら西洋人には、細かいことにこだわることへの忌避感があるのだろうか。逆に日本人の感覚では、彼らのおおざっぱぶりに困惑する。

もう1つ例を挙げると、artifact。具体的なものをみれば、なんということもないものでも、それをartifactと表現されると、なんじゃ、それは?!となる。実際問題、各種英和辞典を見ても、「人工遺物」「人工物」など色々な意味不明な訳語が掲載されており、具体的にどんなものなのか、訳語からはさっぱり想像することもできない。しかし、ことデジタル信号処理分野に限ると、それはまさに「にじみ」「シミ」「汚れ」「不要要素」そのものである。それなのに、なぜわざわざこんな意味不明なもってまわった難解で人を困惑させる表現をわざわざ使うのか、ということである。ここに西洋文明における上から目線、お高くとまっていかにも偉そうに見せる癖、衒学趣味、典型的なわけわからん総称命名法といったものを感じる。翻訳する立場にいる人は、結局どう訳してよいかわからずに安易なカタカナに逃げて、「アーチファクト」などと表記する人もいるが、これでは、まったく原語に迎合しているだけで、なんの解決にもなっていない。ここでも、日本語では、具体的なディスプレイ上の好ましくない個々の現象を具体的に表現しようとするのに対して、英語では、それらの現象をまとめてカバーする総称で済ませようとする傾向が見られる。

外人連中は、日本語の「など」の表現を取り上げて、日本語は「あいまい」だというが、しかし、英語では、この「など」の表現に相当するものとして、includeが使われることが多い。つまり、A is B. (A=B)という表現に代えて、A includes B. (B⊂A)のような表現を使うのだ。これを邦訳本では、多くの場合、「~には、~が含まれる」などと直訳されていることが多いが、まさにこれは、『Aには、B「など」がある』という表現と瓜二つなのだ。逆に英訳のときは、「など」を訳すときに etc. とか、and so onなどと直訳せずに includeとか、including... などを使うと自然な英語になるのではなかろうか。

 

日本では、全国的にテレビ離れが進行しているというご時勢なのに、ディーガのほうでは、なんと、全録画機能を前面に押し出しているとか。大幅にトレンドを読み違えているのではないか。

ろくすっぽ見るべき番組がないのに、テレビ番組評論家向けじゃあるまいに、自動とは言え、律儀に不要な番組をせっせと録画してどうしようというのか。後でそれらを削除する手間のほうが大変なのではなかろうか。古いものから順に消していってくれるとはいっても、壮大な無駄機能であるとしか言いようがないが、パナソニックはそうとは考えていないのだろうか。

まぁ、最初に使用時にそれを使用するかどうかは購入者が決めることではあるが、しっかし、何も知らない人は、同製品の全録画機能(チャンネル録画)はそういう機能だと思って、それを初期設定のまま使っている人がいるかも知れない。
そんなことより、もっと急務を要するさっさと装備して欲しい機能が山ほどあるが、パナソニックのほうでは、さっぱりそのようなことには関心がないと見えて、ここ数年は、単にHDDの容量を増やすことだけしかやっていないように見える。

外国の企業にはない日本企業の特徴として、日頃のまめな些細な「改善」の積み重ねがあると言われるが、ディーガの開発陣にはその片鱗がさっぱり見受けられない。
直ちに標準装備すべきものを緊急度の高いものから順番に列挙してみる。

(1) A-B間リピート機能(再生時の機能の1つ)
数分程度の短い時間を繰り返し見る機能。現在、これに相当するものとしては、チャプター間繰り返し機能として搭載されているが、これだといちいちチャプターを切らなくてはならない手間が発生する。そういう大げさなことをしなくても、気軽に任意の間隔のみを繰り返し再生できる機能を付けてもらいたい。
これは、他社では、当たり前のように付いているのに、なぜ、ディーガにはこの程度の機能がないのか。

(2) チャプター単位のダビング機能
たとえば、複数の歌謡番組があったとすると、特定の歌手や特定のジャンルの曲、あるいは、何かお気に入りの曲のみ(1つがせいぜい3分前後の短いもの)を集めて、それだけをメディア(BD-R)にまとめておきたいと思うとき、あらかじめ元のHDD上の番組にチャプターを切っておき、目的とするチャプターのみを選択して、メディアにダビングする機能。これは、歌謡番組のみならず、お気に入りのCM(せいぜい1分にも満たないものが多い)など、対象は千差万別である。東芝のDVDレコーダーには搭載されていた機能である。
もし、これと同じことを現在のディーガでやろうとすると、BD-Rではなく、BD-RE(ダビング後、チャプターの削除など編集ができるメディア)を使わないとできないし、そのような二度手間的なことは、超面倒くさいし、そもそも、削除前には、目標とする番組数未満でメディアが満杯になってしまう不便さがある。
目的とするチャプターが数分足らずなのに、それ以外のものをいちいちBD-REから残りの数十分を削除する作業の馬鹿々々ことと言ったら。ディーガの開発担当者はそういうくだらない作業をせざるを得ないことをどう考えているのか、想像力が足りな過ぎる。

(3) 録画一覧の番組名の検索機能
一昔前の300~500GB態度の容量の小さな頃に比べ、最近は、HDDが4TB以上のものが出てきており、あまりにも録画一覧ページが多くなり過ぎて、自分の録画したものが目視だけでは探しきれない。
編集機能がついているので、ユーザーが独自にその番組内に出てくる固有名詞や人名などを番組名の一部として追記していることも多いが、それらを検索できればどれだけ便利なことか。

(4)録画一覧の外部出力機能(画像サムネール付き)
上記と関係するが、ディーガには、上記の録画一覧をデータ化する機能があるようだが、超面倒、手間がかかり、かつ超ダサくて、どうにもならない。

東芝の往年のDVDレコーダー(RDシリーズ)の場合は、有線LANでPCと接続するだけで、たちどころに録画リストがhtmlファイルとして画像のサムネール付きで作成され、それを当然のごとくプリントアウトすることもできた。
しかし、ディーガの場合は、それが即座にできず、手作業による作成で、実に時間がかかり、ダサ過ぎて話にならない。このソフトを考えついた人は、何を考えているのか、センスがなさ過ぎるとしか言いようがない。とてもではないが、これでは、商品とは言えない。味噌汁で顔を洗って出直してもらいたい。

最近の大容量のブルーレイ機でも、だいたい、9ヶ月から1年前後でHDDがいっぱいになってしまうため、また、新たにレコーダーを買わないと次の録画ができない。そういうわけで、すでに自宅には、20台のブルーレイ機があるが、さすがにそれだけあると常時電源を入れっぱなしにしておくわけにもいかず、できれば、録画一覧を各装置ごとにファイル化して、そのテキストファイルをPC上でグローバル検索できるようにしておかないととてもじゃないが、せっかく大量にたまったデータの一括検索による有効活用ができない。

いったん、これらがテキストファイル化できさえすれば、それに自由に補足追記することで、過去のテレビ番組の細かいデータ作成ができ、いわゆる紙の書籍ではカバーできない映像データの貴重な検索手段となり得る。

近年、音声データの認識率の向上とそれに伴うテキスト化(文字化)が進展著しいが、それはあくまでも、一人の個人の音声のしかも雑音がないことが条件であり、テレビの番組のように複数の人たちの自由な発言(二人以上が同時に発言することによる重複も多く、さらに周囲の雑音もある)をすべて正確に文字化するのは、現時点では、かなり困難な模様。それを補うのが、テレビ番組名に日付けデータやテレビ局名も含めた、番組内容の追記によるデータ作成であると言えるが、そのためのベースとなるのが、ブルーレイレコーダーによる録画済み番組リストの自動作成であると言える。しかし、ディーガのデータ化は、どう考えても自動生成とは言い難く、かなり人的に手間をかけないと、出力されてこない、という超ダサいところが一大特徴である。
(2016.12.11)

10月18日(土)に放映された『所さんのニッポンの出番』の再放送を見ていたら、日本を訪れた外人観光客が物珍しさに釣られて日本国内で撮ったスマホのカメラで撮った日本の光景が紹介されていたが、その中に例によって路上に所狭しと並ぶ自販機の様子が紹介されており、彼らが一様にコメントするのは、自分たちの国では、こんなものが路上に並んでいるとたちまち持っていかれたり、破壊されたりしてお金が取られてしまう、ということであった。しかし、彼らは考えないのだろうか。なぜ自国ではそのような行為が日常茶飯事として起こるのに、日本ではそのようなことが起こらないのかと。

彼らはあっけらかんと愉快そうに喋るが、彼らはそのことを日本と比較して、自国でのそのような狼藉行為を恥ずかしいとは思わないのだろうか。
暴動などが海外で報道されると、その中には、そのどさくさに紛れて博物館に侵入して、そこの展示品を運び出したりしているシーンを見かけるが、彼らの心性は、スペインが南米の金銀財宝を収奪した当時と変わらないのであろうか。

翻って、戦後でっち上げられた南京大虐殺とやらも、南京入城前に軍律に厳しい松井石根大将が戦後の極東軍事裁判でありもしないその罪に問われて死刑を宣告されたということの間にはギャップがあり過ぎ、あまりにも牽強付会甚だしく、不自然極まる。その虐殺数とやらも、広島・長崎の原爆投下で亡くなった人の人数に合わせたかのように符号している。あたかも自分たちが戦争の過程で非戦闘員を殺したことへの正当化を図るかのように。 2014.10.20

ジュンク堂大宮店がそれまであったロフト店から高島屋のほうに移転して再開したのが2013年6月で、そのときに行ってみてすぐに気がついたのが新刊書コーナーがないことだった。

そして、1年以上たった最近もまた久しぶりに行ってみたら、相変わらず新刊書コーナーは設けられておらず、検索機を介しての探索を強いられた。

利用者側にそのような不便を強いてなんとも思っていないのだろうか。確かに発行されて時間の経過した本であればそれもわかるのだが、出たばかりの新刊などは、内容もはっきりせず、そもそも書名も著者名もうろ覚えであることが多く、検索機で検索しようにも正確なものはほとんど覚えていないことが多い。

書店に言わせれば、新刊をすべて新刊コーナーに並べることはできない、と言う。確かにそれはそうだが、専門書のように分類が明確なものは、それぞれの分野のコーナーに行けばいいのだが、評論風のものやサラリーマンがよく読むビジネス書などは分野が多岐にわたっており、複数のカテゴリーを兼ねているものが多く、おそらく、書店の店員でさえもどこに分類すべきか迷うものが多いはず。それらの新刊を新刊コーナーを設けることもせず、いきなり各分野のところにいきなり配列してしまっては、その書店を訪問した客にとって、それがその書店店員が判断した分野の場所にあるとどうやって判断できるのであろうか。

もうすでに10年以上前の話になるが、浜松町に談という書店が出来る前までは、駅構内に山下書店という小さな書店があり、そこに設置された新刊コーナーが絶妙であった。そのわずかな小さなコーナーに思わず手にとって呼んでみたくなるような本が目白押しに配置されているのがよくある書店であったのだ。これは利用者にも非常に効率がよいし、わずか目の前の1平米にも満たない平台に置かれたものの中から何冊も新刊をピックアップして購入できるのだから、これ以上楽なことはないし、そのような配列ができるためには、書店側にも相当の目利きがいないとそれらの書籍を選択することはできないはずだ。

また、今は書店内にカフェ風のものができて、以前よりも書籍が配列される面積が減ってしまったが、神田神保町の東京堂書店の以前の新刊コーナーも素晴らしいものだった。立花隆氏も当時の「ぼくはこんな本を読んできた」に書いておられたことだが、この東京堂書店の1階に設けられた新刊コーナーを激賞しておられ、大いに意を強くしたものだ。誰しも同じ印象を持つものなんだなぁ、と。

選びに選び抜かれた新刊が置かれたコーナーであれば、そのコーナーがたとえ小さな面積のそれであっても、そこからピックアップするだけで、それらの書籍購入金額は、たちまち1~2万円の額に達してしまうことはよくあることである。

ひるがえって、上記の大宮店は、書店を再開して1年以上にもなるのに、いまだに新刊コーナーを設けずに検索機などを利用させるという本末転倒なことをさせて平気でいられる鈍感な書店の店長というのはどういう神経をしているのであろうか。

そもそも新刊コーナーというのは、発見の場である。そもそも検索機というのは、書名や著者名がわかっていてこそ効果を発揮するものである。まったく予想もしなかった「おっ、こんな本が出ていたのか!」という発見のある場所である。そういう思いもよらない書籍をどうやって検索機で代用できるというのか?!?!?!

大いにセンスを疑う。

新刊を新刊コーナーに並べず、いきなり該当する特定の棚に入れてしまうと、そこでそれはその棚の前に来る人以外には埋もれてしまう可能性が大である。しかも、その分類棚は、あくまでも多くの分類の可能性のある中でたまたまその書店の担当者が判断した基準で並べられているもので、客観性はない。

つまり、新刊コーナーを設けないことで、その分、その書店が発見・購入される確率が何十分の一に激減してしまっている可能性があり、さらに書店全体としてそのことによって売上を減らしている可能性すらある。

つまり、検索機などというようなものは、あくまでも書名や著者名が既知であればともかく、それ以外にさほど役にたたない副次的なものであり、新刊コーナーを設けることによって得られる発見の場の提供にまさるものはない。

街角の小さな書店ですら実行している新刊コーナーをジュンク堂ほどの大規模な書店が実行していないのはあまりにも宝の持ち腐れだとしか言いようがないものだが、規模が大きく、どこになにがあるか分からないような、そして、すべての書籍が最適に分類・配列されるとは限らない中で新刊コーナーの果たす役割が多大であることは疑う余地のないものであるだけに、非常に不可思議な同書店の行状ではある。

(2014.9.18)



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